http://karapaia.livedoor.biz/archives/52174680.html引用


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 インターネットの普及により、今までめったに見ることのできなかった世界中からの、歴史的瞬間をとらえた写真を見ることができるようになった。これらの写真は定期的にネット上を賑わせているわけだが、今回も貴重な写真が特集されていた。


1. ルイス・ボータンによる世界初の水中写真

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 1893年当時、撮影までに30分の露出を要した


2. 1968年、ベトナム、ケサンの戦い

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 1968年1月21日に始まり77日間に渡って繰り広げられたケサンの戦いは、ベトナム戦争において最も激しい戦いの1つであった。北ベトナム軍とベトコンがテト攻勢を開始すると、米軍と南ベトナム軍はケサン基地を確保するため、ナイアガラ作戦を実施した。114,000トンの爆弾が投下され、北ベトナム軍側に5,000名の戦死者が出ている。米軍はこれを契機に攻勢を強め、彼らを撤退させた


3. 妻と豆の収穫に行く失業中の林業労働者。

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 腕に社会保険番号が刺青されている。1939年、ドロテア・ラング撮影


4. 地下鉄の鉄格子の上に立つマリリン・モンローの有名シーンの舞台裏。

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 1955年、映画『七年目の浮気』より。ジョー・ディマジオが写っている。彼はこのシーンに腹を立て、やがて2人は離婚することになる。


5. 東條英機自殺未遂事件

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 アメリカ軍憲兵(MP)、ジョン・J・ウィルパーJrが、心臓を自ら撃ち抜き意識を失いかけた東条英機を発見。1945年9月11日、東京にて

 9月11日、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)が東條をA級戦犯容疑者のひとりとして指名し逮捕指令を出すと、逮捕をスクープしようと新聞記者たちが東條の家に急行した。午後3時ごろ、表が騒がしいのを聞いて、東條は妻勝子に知人の家に身を寄せるように命じて家から出した。午後4時ごろ、アメリカ軍憲兵(MP)の一行が東條の自宅に到着。MPが玄関の扉越しに話をしたいと告げると、玄関右側の窓から東條が顔を見せて正式の逮捕かどうかと通訳を介して尋ねた。MPが逮捕令状を見せて、すぐ支度するように求めると、東條は同意して玄関を開けると言って窓を閉めた。

しかし、4時17分ごろ、玄関が開く代わりに1発の銃声が響いた。直後、東條の私邸を取り囲んでいたアメリカ軍を中心とした連合国軍のMPたちが威嚇射撃をして踏み込んでみると、東條は応接間の椅子に座り、右手に持った拳銃(後述)で自らの胸を撃ったとみられる状況で発見された。東条英機は連合軍による治療で一命を取り留めたものの、A級戦犯として起訴され、1948年12月、絞首刑に処された。wikipedia


6.南北戦争時の新聞配達員

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 バージニア州の連合国軍キャンプで新聞を読む兵士とともにポーズをとる新聞販売員。1863年、南北戦争にて。アレクサンダー・ガードナー撮影


7. ゲティスバーグの再会の集いに出席する古参兵(1913年)

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8. 狙撃直後のロバート・ケネディ司法長官とその夫人

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 狙撃された後、アンバサダーホテルのキッチンの床に横たえられたケネディ大統領の弟、ロバート・ケネディ司法長官と、彼を介抱する夫人。1968年6月6日撮影


9. ベトナム戦争の抗議デモに参加する兵士(1970年代)

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10. ネイティブアメリカンの電話の交換手

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 ホテルで電話の交換手を勤めるネイティブアメリカンの女性。1925年6月撮影


11. 塹壕から這い出てきた米海兵隊

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 1966年9月21日、ベトナム戦争で3日続いた戦闘の後、泥にまみれた塹壕から這い出てきた米海兵隊


12. 米ニュージャージー州アトランティックシティ(1912年)

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13. ベルリンの壁

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 西ベルリン側から壁越しに覗き込み、東ベルリンにいる母親へ話しかける若いカップル。1960年代撮影


14. ベトナム戦争の捕虜

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 ホームカミング作戦で開放されたことを祝うベトナム戦争の捕虜。ハノイから飛行機が離陸し、ついに自由になった瞬間


15. 自由の女神

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 1973年のジャージーシティから望む自由の女神。まるでSF映画のディストピアだ


16. ボウドイン大学綱引きチーム(1891年)

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17. マクドナルド1号店

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 ディックとモーリスのマクドナルド兄弟が米カリフォルニア州サンバーナーディーノに開店したマクドナルド1号店。


18. ベトナムとアメリカの兵士

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 ベトコン奇襲戦に備え、夜を明かしたベトナムとアメリカの兵士。ビンギア村付近、1965年1月、ホルスト・ファース撮影


19. ペンシルバニア州ピッツバーグ

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 1940年、ジャック・デラーノ撮影


20. 銀行に詰めかける人々

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 共産党が勝利する前に金をおろそうと銀行に押し寄せる人々。1949年、上海にて


21. )ヒトラー家のユダヤ人主治医エドゥアルド・ブロッホ

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 1938年、オフィスで撮影。ナチスドイツがオーストリアを併呑した際も、エドゥアルド・ブロッホはゲシュタポから特別な保護を受け、アメリカへの亡命も許可されている

 ヒトラーの家族は彼を主治医として育った。ブロッホ医師は貧しい一家でもしっかりと面倒を見て、ヒトラーの母親が乳がんにかかったときも、安く薬を与え、緊急のときには無料で処方した。ナチスによるホロコーストが実施された際は、彼とその妻は保護され、亡命も許可されている。ナチスドイツがオーストリアを併呑した際、ブロッホ医師がヒトラーに手紙を出すと、ヒトラーは即座にゲシュタポを送り、危害が加わらないように保護させた。

via:cavemancircus・原文翻訳:hiroching