http://blog.livedoor.jp/nwknews/archives/4093820.html引用

1:日本@名無史さん:2006/11/06(月) 03:56:09
君が爺さん、婆さんから聞いた、リアルな実体験話を 
皆に聞かせるためのスレッド。 

歴史上の有名人との接触 
歴史上重要な出来事に関わった話 
先祖が英雄で、身内しか聞けない話 
その他、どうでもいいがおもしろい話 

こんなところかな 
個人的には黒船から日露戦争までの時代の話を聞きたい 
歴史
13: 日本@名無史さん:2006/11/06(月) 16:45:00
大正後半から昭和初期の話だが、うちの曾祖母は小卒後、
地元の県立工業学校で自動織機を学びながら働いてて、 

当時としては貴重な技術だったため、小学校の校長と同じ給料を貰ってたとさ。 

数ヵ月に一度は実家に田畑を買ってやったと言ってた。 
歳にして13~だから、今の時代じゃ考えられんな。 
俺なら田畑を自前で所有して、零細農家から買ってきた娘を小作兼妾として囲ったなw 



57:
 日本@名無史さん:2006/11/10(金) 00:31:27
俺も昔は親父にボコボコ殴られたな。 
まだ工房だが。 
近所の娘は中二の時に漫画ばっか読んでたら祖父に怒られ、 
パンツ一枚で何時間か庭の木に縛りつけられてたよ。 
塾の隣の家だから皆で観察してたな。 
父権が強すぎるとこういう輩もいるんだろう。 



58:
 日本@名無史さん:2006/11/10(金) 00:38:37
娘をパンツ一枚 
それなんてエロゲ? 



65:
 57:2006/11/10(金) 17:31:32
>>58 
孫だよ。 
かなり衝撃的だった。 

昔はよくあった事なのかな? 



66:
 日本@名無しさん:2006/11/10(金) 17:40:34
>>65 
別段珍しいことじゃないかと。 

というか、今が幼児虐待がポルノが如何とか五月蝿過ぎ。 
昔はこういうことはしても、テレビを賑すようなアレなことはそれほど。 
現代がアホを生み、アホが師匠になって今に至っているというか。 



89:
 日本@名無史さん:2006/11/11(土) 04:10:47
幕臣時代の福沢諭吉!けっこうかっこいい! 
この頃、ガキだった人が俺が生まれた時、まだ何人か生きていたと 
思うと、俺も年とったと思うよ・・・。 
89_1



113:
 日本@名無史さん:2006/11/14(火) 06:50:23
死んだ爺さんはノモンハンに従軍して無傷で帰ってきたが、 
(今ではソ連側の資料で双方大損害であることが明らかだが) 
当事者として感じたのは、 
「これだけ装備に差があって勝てるわけがね~」 
だったそうです。 

もう一方の爺さんはビルマから復員したが、死ぬ間際はうわごとで 
「上官殿ォ~!我々はお国と銃後を守らねばならぬ~!」と何度も叫んでいた。。。 
おそらくフルメタルジャケット的新兵教育を受けたのがよほど辛い経験だったと思われる。 

あと、さすが軍隊にいただけあって俺のおもちゃのピストルを 
指でくるくる回してホルスターに入れるのが巧かったw 
幕末でも明治でも大正でもない話ですまそ。 



114:
 日本@名無史さん:2006/11/14(火) 12:44:38
>>113 
かなりなごんだ 
文才あるよ。 



115:
 日本@名無史さん:2006/11/14(火) 13:33:04
俺が10才の時に死んだヒイ爺さんは、日露戦争開戦時に東京で学生してたが 
第二軍第三師団(名古屋)の兵士として出征し、遼陽や奉天で戦っている。 
大学の同級生の多くも志願したが、第三軍(旅順攻撃)に配属された 
東京・北陸・四国・北海道出身者のほとんどは戦死したそうだ。

だから
「乃木のせいでいい奴らが沢山死んだ」と乃木大将の事をひどく嫌っていた。 
陸軍の兵士だったのに、海軍の東郷元帥のことを神のように崇めていて、 
客間に東郷元帥の御真影が飾ってあった。 

太平洋戦争時は「東條みたいなキチガイが起した戦争に勝てる訳がない」と 
公言して、非翼賛候補を応援したり、自由主義者を家に匿ったりしたから、 
警察に呼び出されたり、私服警官が家の廻りをウロウロしたりしていたそうだ。 

もし在郷軍人会の役員じゃなかったら逮捕されていた。 
でも戦後は在郷軍人会の役員してたのが仇になってパージ食らって、 
共産主義者から吊し上げ食らってたそうだ。「折角戦争が終わったのに、 
特高の嫌がらせよりも、アカの嫌がらせの方が陰湿だ」と嘆いていたそうだ。 

朝鮮戦争が始まると今度はアカの連中がパージ食らって、ヒイ爺さん達が 
復活し、昭和30年頃までは町中が落着かなかったらしい。 



118:
 日本@名無史さん:2006/11/14(火) 19:00:01
>>115 
わかる。 
まだ日本男児の気概が残っていたんだろうな。 
俺の母の爺ちゃんの話で戦時中でも
そういう男気のある日本人がいたことは聞いているし。 



126:
 日本@名無史さん:2006/11/14(火) 23:57:23
>>115 
波乱万丈だなw 
ちょうど、 
日露から太平洋戦争跨いで終戦後までを生きた
世代の人ってぜったい面白い話ゴロゴロ持ってるよな。 
酸いも甘いも経験してるっつうか。 



119:
 日本@名無史さん:2006/11/14(火) 20:08:26
大正生まれの死んだ婆ちゃんは大阪のど真ん中に住んでたスーパーお嬢様。
昭和の初期に宝塚観劇に日参し、神戸の外人が経営する
ケーキ屋やチョコレート屋に買い物に行っていたそうだ。 


戦時中は別荘に疎開し、そこでもすき焼きやアイスクリームを食べていたという。
弟は家にある砂糖や水飴を持ち出して、それを餌にナンパ三昧だったそうだ。 

現代と変わらない生活をしていたが、死ぬまでヒトラーとムッソリーニは
日本に味方をした素晴らしい人達だと言っていたのが、時代を感じる。 




127:
 日本@名無史さん:2006/11/15(水) 00:02:13
>>119 
船場のこいさんってやつかな。 
当時砂糖は貴重品だったし、毎日宝塚観劇となると本当にお嬢って感じだね 



138:
 日本@名無史さん:2006/11/15(水) 17:03:43
大正生まれのうちの爺さん、戦争中は潜水艦にのってました。今でも酔っぱらうと当時の事を話ます。 
追い詰められて、音をたてて敵にみつからないよう真っ暗な艦内の中、ただ耐え忍ぶ恐怖。 
聞こえるのは敵がおとす機雷の爆発音だけ。極限の状態で思い出すのは母親の顔だったそうです。 
こういった体験を自分の子供達に伝えていくことも、僕らの大切な役目だと考えます。 



139:
 日本@名無史さん:2006/11/15(水) 18:08:06
>>138 
Uボートの別名は鉄の棺桶。 
日本軍のはそれに輪を掛けて酷かっただろうね・・・。 



140:
 日本@名無史さん:2006/11/15(水) 18:14:03
山県有朋や松方正義と話したことのある人が生きている可能性はあるな。 



145:
 日本@名無史さん:2006/11/15(水) 19:37:30
>>140 
うちの婆ちゃんは91才だが、東郷平八郎と会っている。 
どういう理由か、婆ちゃんが通っている女学校に来たそうだ。 
生徒を代表して婆ちゃんが「閣下、揮毫して下さい」と言ったら、 
気軽に一筆書いてくれたそうだ。それは今でも学校にあるらしい。 

何か御言葉があるかと期待していたが、最初から最後まで一言も発せず 
声は聴けなかったそうだ。最初耳が聞こえないのかと思ったが 
「揮毫して下さい」と言ったら直ぐに書いてくれたので、 
聞こえてたはずだとのこと。 



149:
 日本@名無史さん:2006/11/15(水) 21:14:00
>>145 
薩摩隼人だからな、尋常じゃないくらい無口なんだろうw 



152:
 日本@名無史さん:2006/11/16(木) 02:08:09
>>145 
これ面白い逸話だね。アリガトン 



146:
 日本@名無史さん:2006/11/15(水) 19:59:38
オレの曽祖父は大工だった(祖父も)。 
その曽祖父が横浜の本牧に、ある政治家の肝煎りで遊郭のようなものを作り始めた。 
ところが準備万端整えて建て前までしたのだが、突然打ち切りになった。 
曽祖父は引くに引かれず仕方なく最後まで作ってしまったらしい。 
曾祖母はそれいらい政治家のことが大嫌いになった。 

その政治家とは尾崎咢堂である。 



147:
 日本@名無史さん:2006/11/15(水) 20:15:13
>>146 
貴重な話をありがとうございます。 

素晴らしい!! 



151:
 日本@名無史さん:2006/11/15(水) 22:51:59
明治30年代生まれだった祖母は洋服を「簡単服」と言っていました。 
キセルで煙草をばんばん吸っていました。 



153:
 日本@名無史さん:2006/11/16(木) 02:28:11
簡易服 
ある意味なるほどと思った 



164:
 :日本@名無史さん :2006/11/16(木) 21:29:30
関東じゃ有名な話だけど、薩長が日本中で嫌われてる本当の理由は九州や中国 
の強盗まがいの在日部落民を戊辰であちこちに移住させたから。朝鮮系パチ屋 
やサラ金やヤクザは皆その系統の移民。 



168:
 日本@名無史さん:2006/11/16(木) 22:40:27
>>164 
好き勝手歴史を塗り替えたしな 



170:
 日本@名無史さん:2006/11/17(金) 02:14:58
薩長の最大の罪は、明治期以後江戸の町並みと
文化を完全に破壊しつくしてカケラも残さなかったことじゃないだろうか 



173:
 日本@名無史さん:2006/11/17(金) 11:35:27
>>170 
関東大震災と東京大空襲で、江戸の街並は灰燼に帰した。 
京都は1985年頃まで古い街並がよく残っていたが 
バブルの地上げで見る影もなくなった。 



175:
 日本@名無史さん:2006/11/17(金) 14:01:56
>>173 
京都の惨状は世界的に有名らしいね。
何故あんなに貴重な文化を破壊したんだ!ってさ。 
アメリカのメル友に嘆かれた事ある。作り話じゃなくて。 



177:
 日本@名無史さん:2006/11/17(金) 15:33:23
>>175 
米軍も、京都と奈良は文化遺産保護のために爆撃しなかったからな。 
戦争でも守られた文化遺産を、不動産屋やヤクザが次々に破壊しても 
見て見ぬ振りをしているんだから、解同採用枠のある京都市役所らしいよw 



178:
 日本@名無史さん:2006/11/17(金) 15:34:58
>>177 
その文化遺産保護ってのは本当なんだっけ? 



179:
 日本@名無史さん:2006/11/17(金) 15:44:48
>>178 
湾岸戦争やイラク戦争でも、ウル、バビロン、ニネベといった遺跡を 
米軍は爆撃しなかったから、良い悪いは別にして国民性だろう。 



172:
 日本@名無史さん:2006/11/17(金) 09:25:26
五重の塔でさえ売りに出したんだもんな。馬鹿過ぎだよ 



209:
 日本@名無史さん:2006/11/19(日) 11:50:00
明治生まれの俺の爺さんが父親(俺のひい爺さん)から聞かされた話だが、 
ひい爺さんは西南戦争に従軍していたらしい。西郷軍には戦国時代の鎧兜姿や 
火縄銃を持って従軍した兵士がいたそうだ。
そこらへんに腐乱死体が転がっていて
悪臭がひどかったとか聞かされた。 



215:
 日本@名無史さん:2006/11/26(日) 18:53:06
祖母から聞いた歌が「クロポトキンの首をとり~」 
日露戦争時にはやった歌の一部らしい 



217:
 日本@名無史さん:2006/11/26(日) 23:20:50
>>215 
お手玉しながら唄うヤツだろ 
漏れは母親から聞いたorz 

ゲキレツランパン破裂して 
日露戦争始まった 
とっとと進むは日本の兵 
さっさと逃げるはロシアの兵 
クロポトキンの首を取り 
東郷元帥万々歳 

だったな。1行目は意味不明。
なんでクロポトキンをやって東郷が万歳なのかもわからないし。 



218:
 日本@名無史さん:2006/11/26(日) 23:34:20
うちの婆ちゃんのお手玉の歌はこれだった。 
もちろん全然意味が判らなかったが、 
ガキの時にさんざん聞いたから耳から離れない、今でも歌える。 
文部省唱歌だったんだな。 

旅順開城約成りて 敵の将軍ステッセル 
乃木大将と会見の 所は何処水師営 
庭に一本棗の木 弾丸あともいちじるく 
くづれ残れる民屋に 今ぞ相見る二将軍 



226:
 日本@名無史さん:2006/11/29(水) 18:34:51
おれも婆さんからいろいろ話を聞いたけど、 
印象に残ってるのはほんと差別が凄ぇな昔は。 
橋がかかってる場所のこっち側と向こう側では別世界、 
例えるなら白人居住地と黒人居住地みたいな差別があったらしいな。 

地方や集落により様々だろうけど、 
今の時代もてはやされる双子ちゃんは、 
犬畜生みたいな捉え方で、生まれてすぐ・・・してたと聞いたな 
特に男と女の双子は心中したもんの生まれ変わりで 
最も忌み嫌われたらしいなぁ 



232:
 日本@名無史さん:2006/11/30(木) 15:16:46
俺の婆さん(90歳。ご存命!)が子供の頃、近所に住んでいた老婆は 
(天保以前、ひょっとして文化、文政生まれくらいか?) 
少女の頃、打ち首になった自分の父親の首をフロシキに包んで、家まで 
持って帰ってきたらしい。「ミニにたこができる」ほどこの話を聞かされた。 



233:
 日本@名無史さん:2006/11/30(木) 16:51:52
>>232 
リアルだな… 



235:
 日本@名無史さん:2006/12/01(金) 00:38:41
俺の爺ちゃん 
若い時、本田宗一郎の知り合いで 
本田宗一郎がバイク屋を始める時に 
一緒にやらないか?と誘われたが 
金にならないからと言って断った 
爺ちゃんの見る目無し! 



244:
 日本@名無史さん:2006/12/04(月) 02:48:34
>>235 
もし受けてれば今頃お前は大金持だな 



237:
 日本@名無史さん:2006/12/01(金) 01:11:00
当時本田家の近所(赤坂?)では「スピード狂のオヤジ」扱いだったらしい 



238:
 日本@名無史さん:2006/12/01(金) 11:09:51
世界を変えるのはいつも奇人変人 
凡人はその後をついていくだけなのだ 



247:
 日本@名無史さん:2006/12/04(月) 18:48:58
父からのまた聞きの話だが、 
うちの爺さんかひい爺さんは、幼いころの与謝野晶子のご近所さんで、 
与謝野晶子は近所では「あの子と遊んじゃいけません!」なんて言われている 
不良娘だったらしい。 



250:
 日本@名無史さん:2006/12/04(月) 22:52:13
>>247 
ま、今では当たり前だがその頃恋愛結婚なんてふしだらな事やったんだからな 
40年前にジーパン履いて歩き回るようなもんだよ 



252:
 日本@名無史さん:2006/12/14(木) 21:11:58
うちの祖父は関東軍で、終戦でシベリアに抑留され復員したのは昭和24年。 
その時うちの親父は5歳で、写真でしか自分の父親を知らなかったから 
写真とは変わり果てた父親から「お父さんだよ」と言われても実感がなく、 
見知らぬおじさんだと思って逃げてしまったそうだ。祖父も辛かっただろうな。 

シベリアの収容所では全員が栄養失調で、毎日のように戦友が死んだそうだ。 
夕べ「おやすみ」と言い合った仲間が、朝になったら死んでいる。 
「こんなところで死ねるか、絶対に生きて帰ってやる」と強く思いつづける事で 
生き抜いた、と言ってた。8年前に死ぬまでロシア人を呪っていたよ。 
祖父の口グセは「ロスケだけは信じるな」だった。 



272:
 日本@名無史さん:2006/12/26(火) 22:37:06
うちのひいばあちゃんは明治35年(1901)生まれ、でもって話好き。 
四国の生まれだが8歳のとき蝦夷開拓移民団で北海道へ 
17歳で四国に帰り大阪へ奉公に 
そこで結婚した。 

北海道へ行く時の船は四国から、下関 金沢 新潟 函館 と(江戸廻船!)ルートだったそうな。 
途中で日露戦争の大砲の音を聞いたといってた・・ 
北海道の開拓はものすごかったが若かったのでおもしろかったとか 
クマの話や馬橇に乗るのは病人の出たときだけだったって。 

結婚したら米騒動、 
鈴木商店や三菱(大阪)の倉庫の周りを 
銃剣つけた兵隊さんが囲みその周りを竹やりのおっちゃんたちが囲んでいるのを目撃したらしい。 

「男が俵もって逃げるのを見てたら、 
ほいねぇちゃん・・いうて米ぎょうさん地面にこぼしてくれて、 
おおきに いうて手ですくうて前かけいれて・・」と話し出すときりがない・・・ 

ばあちゃんの小さいころすでにおばあさんだった人から 
エエジャナイカ参りの話を聞いて「昔はむちゃしたんやなぁ」と思ったそうです 
99まで生きて2000年没 



273:
 日本@名無史さん:2006/12/26(火) 23:33:48
>>272 
すげーな。 
もっと聞かせておくれ