274: 日本@名無史さん:2006/12/28(木) 00:50:09
それでは・・・ 
おばあちゃんのうち(下町の長屋)には太平洋戦争中もでかいユニオンジャックがあった 
これは、日英同盟のとき町内会で購入したもので 
日の丸とぶっちがいにして家の前に飾った 

大きな木綿の布なんて戦争中は貴重品だったけど 
「柄が柄やから、買出しの風呂敷にも使えん」 
仕方がないので、押入れで布団を包んであったそうです 
みんな1945年3月の大阪大空襲で焼けた 



275:
 日本@名無史さん:2006/12/30(土) 22:32:20
婆さんが子供の頃、決して刃物を使ってはいけない厳しく言われた時刻があった 
(6時から7時だった気がする)。と言うのは、この時刻に何代か前の先祖が切腹したかららしい。 

なぜ切腹させられたかというと、勘定役だった先祖の部下が仕事中にうまの合わ 
ない同僚を刀を抜いて切り殺したそうだ。その場にいた人たちは、先祖も含めて 
クモの子散らすように逃げ出してしまった。

江戸時代後期になると武士も結構軟
弱になったてたのだろう。 
その士道にあるまじき行為を咎められ、上司としての部下の管理責任も問われ、 
先祖は謹慎を命ぜられた。処分は近親だけだったが、それを恥じて切腹したらしい。 



298:
 日本@名無史さん:2007/01/26(金) 23:47:43
>>275 
興味深い話をありがとうございます。まあ、逃げた云々はさておき 
切らなくなくてもよい腹を切るのは、廉恥を知るもので武士として 
立派な態度でしょう 
ご存知かも知れませんが、江戸城でも同じような事件がありますので 

ご参考まで 
http://homepage3.nifty.com/motokiyama/nagai/nagai28.html 



277:
 日本@名無史さん:2007/01/04(木) 18:44:39
幕末に流行った「ええじゃないか」の逸話が聞きたい 



278:
 日本@名無史さん:2007/01/06(土) 14:29:08
ええじゃないか参り うちのおばあちゃんの話 
明治の終わりごろすでに年寄りだった人からの伝聞 
 (at 徳島県北部) 

最初はどこから始まるんかわからんのやけどな 
道を行列でひとがくるらしい 
おなかがすいたら、 
人のうちの台所(だいどこ)に大勢で勝手に入って 
そこにあるもん勝手に食べるんやて 

文句ゆうたら 
「ええやないか、ええやないか、なんでもええやないか」 
それだけ言うて、ほかにはなんにもしゃべらへん 
人数の勢いで食べたら出て行くねんて 
大勢で入れる台所やから大きな家でそんなとこは 
しゃないなぁ・・ってことになるらしい。 
(徳島だから)船も「ええやないか」でどやどやのったら 
乗せていってくれたんやて。 

お伊勢さんのそばまで行ったらもう歩かれへんほどの人で 
おまつりみたいやったそうな 
「帰りはどうしたん?」(by孫) 

さぁどうしたんやろなぁ 
とにかく、返ってはきはったらしいで、四国まできたら 
お遍路さんのお接待もあるさかいねぇ・・・ 

こんな話です。(あたしと母とで思い出した分のみ) 
あんまり話が面白いのでうちではテープにとったものがあるのですが、 
昔のオープンリールなので再生ができん。 



279:
 日本@名無史さん:2007/01/06(土) 16:30:19
>>278 
>昔のオープンリールなので再生ができん。 
それってすごく惜しい! 
伝承館とか博物館とか?そういう側でも聞いて見たいんじゃないかな。 
貴重だと思うよ。 



280:
 日本@名無史さん:2007/01/06(土) 16:43:37
>>278 
大学かどっかの研究機関なら涎垂らすぐらい欲しいんじゃないか?それ。 



302:
 藤原南家工藤氏34代目:2007/01/28(日) 00:07:30
こんなスレッドあったんだな、今日知ったよ。それでは俺が聞いた本物の話を。 

20年ほど前に97歳で亡くなった祖母(明治25年生まれ)が、そのまた祖母から聞いたと言っていた話。 

①自分(祖母)のばあやんの頃にひどい飢饉があって(たぶん天保の大飢饉のこと)、
普段な
ら普通に道端に生えているはずの草までが食べ尽くされて一本も無かったと言っていた。 
②昔、大地震があって、すごい揺れのために善光寺の軒が地面についたということだ。 
③やはりその地震の時に、善光寺の裏手から大きな火柱が上がったのを見たそうだ。 

今から25年ほど前に亡くなった近所のおじさんが言っていた話。 
①自分の祖父が子供の頃、官軍が石村の道(今の長野市豊野町石)を通って進んで行った 
のを見たそうだ。そしてしばらくすると大道橋のあたりからパンパンという鉄砲の音が 
したんで、屋根に上って眺めていたと言っていた。 

こういう話って、やっぱ貴重だよね。 



305:
 日本@名無史さん:2007/01/28(日) 09:54:30
>>302 
善光寺が大揺れした地震は、弘化四年(1847年)三月に起きた 
「善光寺地震」のことと思われ 

「弘化4(1847)年3月24日、善光寺を中心として起こった地震。 
善光寺開帳の参詣者約6~7,000人が地震と火災によって死亡した。 」 

⇒ http://www.rekihaku.ac.jp/kenkyuu/katudoh/disaster.html 

曾祖母の方が見られたのはきっと吹き上がった大火の火炎だったのでしょうね。 



390:
 日本@名無史さん:2007/03/11(日) 17:08:52
清水の次郎長の話きぼんぬ 



426:
 日本@名無史さん:2007/05/02(水) 10:32:29
>>390 
近代史の任侠スレから 
31:名無しさん@お腹いっぱい。 :2006/11/13(月) 03:14:05 ID:5uhZKHkjO [sage] 
数年前に闇金で話題になった五菱会(現:二代目美尾組)の創立者は、 
清水一家の後身である清水湊次郎長一家の組員だった。 
清水湊次郎長一家は戦後しばらくして解散したが、 
最後の親分はまだ存命中で、組の看板も残っている。 

うちの曾祖父は昭和中頃まで清水で名の売れていた任侠だったので、 
下手を打ったチンピラが曾祖父の家に逃げ込んで来る事があったが、 
曾祖父がたまたま居ない時に逃げ込んで来たチンピラが、 
追手の次郎長一家構成員に屋敷内で切り殺されたという事があったそうだ。 

祖母はその現場を目の前で見たと言ってた。 
ちなみに曾祖父は昭和30年頃に引退するまで、外出時には長ドスを普通に持ち歩いてたそうだ。 

他には、、、 
太平洋側で唯一の油田である相良油田は次郎長が開墾したもの。 
地元で当時から営業している追分ようかんに確認したところ、 
追分三五郎は創作された人物で実在しなかった。 
う~ん、、、とりあえずこれくらいで。 



563:
 名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/11(火) 03:21:36 ID:dIznv88x0
よくよく思い出してみればガキの頃、 
腕一本無いおっさんやら、指が何本か無い爺さん連中が、
けっこうそこら辺にいたと思う。 



564:
 名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/11(火) 14:49:50 ID:QLttVGnI0
>>563 
上野公園とかにいたよ 



567:
 名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/11(火) 21:00:29 ID:tcd7H7VZ0
>>563 
俺は九州出身だが、1970年頃までは、お祭りの時、出店の並びの一角に、 
傷痍軍人がよくいたなぁ。 

ボロボロの軍服を着て、立っていると、通りすがりの人々がお金を呉れる。 



569:
 名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/11(火) 23:54:27 ID:QLttVGnI0
傷痍軍人はバブルを境にあまりみなくなったな~ 
子供の頃はとにかく怖かったな 



573:
 HaruMix:2007/09/12(水) 14:45:11 ID:39T1JSqi0
曾祖母から聞いた話を書きたいと思います。 
父方の曾祖母は1978年、老衰でなくなりました。104歳でした。 
県最年長寿で日本でもベスト10に入っていたと聞いたことがあります。 

60年代後半、小学生であった私は夏休みには祖父、祖母、
曾祖母のいる父方の実家にだいたい一ヶ月ぐらいあずけられておりました。 

あ、歳がバレルかな、その時曾祖母から色々な話を聞きました。 
今回は曾祖父の話をしたいと思います。 

曾祖母から聞いた話ですが、曾祖父は『人買い』に売られたのだそうです。 
素行の悪かった曾祖父は14歳で家の金を着服し家出、東京に辿り着いたそうです。 
上野か浅草か、私もよく憶えていませんがたぶん浅草だと思うのですが、
仕事があるとの甘言につられ、築地の『蒲鉾屋』に売り飛ばさたと聞きました。 


確か3年分の給料が前借りされ、その『人買い』に渡され本人は3年間無給だったようです。 
その間曾祖父はメキメキ腕を上げたそうで、曾祖父のつくった蒲鉾は宮内庁にもおろされたとか、、 
無給だった3年間がおわっても曾祖父はその『蒲鉾屋』にいたのですが、
飲む打つ買うの3拍子そろった遊び人だったようで、 

心配した『蒲鉾屋』の主人が所帯を持てば落ち着くのではと思い、 
奉行人だった曾祖母を紹介、『蒲鉾屋』の主人夫婦の媒酌のもと祝言をむかえたとのことでした。
明治20年代後半ぐらいですかね。 


後に暖簾分けをしてもらい、渋谷村に店をだしたそうです。 
娘(祖母)も生まれ深川に家を建て順風満帆だったのですが関東大震災が全てを変えたとのことでした。 

ここは、たいへん興味深いトピですね。 
数十年ぶりに曾祖母のことを思い出しました。また続きを書きたいと思います。 



575:
 名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/12(水) 23:44:42 ID:IzDgdQbr0
>>573 
当時の浅草は今の渋谷並だからなあ、渋谷村つうのも良いね 
いい感じな江戸前感が伝わってきますね 



576:
 HaruMix:2007/09/14(金) 00:12:25 ID:5Mdensgl0
こんばんわ 
HaruMixです。 
曾祖父と曾祖母は、能登出身だったそうで、
だから『蒲鉾屋』の主人が二人を結び付けたのかもしれません。 

けど曾祖母が言うには遊び人だった曾祖父に、
本人自称『しっかり者』の自分が必要だ、と『蒲鉾屋』の主人に言われたとか、、 

ま、それも本当だったのではないかと思います。 

渋谷村の店は背後に竹林を抱いた坂道、駅から5分位のところにあったそうで、
今考えると、スペイン坂のあたりではないかと思います。 

背後の竹林も家の土地だったとか、 

土地が安かったし『ショウデン(山手線かな)』
『イチデン(都電かな)』の駅が近かったからね、と曾祖母が言っていたのを憶えています。 

渋谷村、、、目の付け所がよかったんですね。 
あのまま土地を持ち続けていてくれたら今頃私は億万長者、、、 
渋谷の土地は関東大震災後売却されたそうです。残念、、、 

曾祖母から他にも聞いたのは『ジャリ』、これは東急玉川線のことではないかと思います。 
後に東急玉川線は、多摩川で掘り起こされたジャリの運搬に使われていたと聞きました。 

明治30年頃から大正12年ぐらいまでのことですね。 

渋谷村に店を出してから、曾祖父と曾祖母は、蒲鉾の他、弁当の仕出しを始めたそうです。 
ま、蒲鉾は元々保存食ですし、米も渋谷村で仕入れていたと聞きました。 
渋谷で米がとれたんですね。 

朝早く渋谷へ行き竹の子を掘ります。竹の子は日持ちがよいように濃いめの味付けで煮染められ、
皮はおにぎりを包む包み紙になるんだそうです。 


冷蔵庫が無い時代、売れ残りの弁当はすぐゴミになります、 
1965年頃の、曾祖母と当時11歳の私の会話 

曾祖母『弁当はね、売れ残ったら捨てるしか無いんだよ、』 
私『次の日に売ったら?』 
曾祖母『冷蔵庫なんて便利な物、なかったからね、たくさん売れると思って売れないと大損害だよ、
逆に売り切れると悔しかったね。なんでもっと作っておかなかったと思ってね』 


晩飯は売れ残りの弁当、そんな日がよくあったと、
曾祖母だけではなく、祖父、祖母からも聞かされたことがあります。 

次回より祖母のことも書かせてください。 
以上でした。 



577:
 名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/14(金) 01:20:52 ID:1+lFy2gO0
読みやすいし空気感がイイ 
戦争に入る辺りとかも聞きたいですね 



578:
 HaruMix:2007/09/15(土) 17:42:38 ID:oStHcDrE0
曾祖母いわく、曾祖父は物凄い遊び人だったとのことですが、
聞いたことを思い出す限りではそんなに悪くなかったように思えます。 


曾祖母から聞かされた話をまとめると 
『店の金を持ち出す、真っ昼間から酒を飲む、仕事を放り出して浅草の寄席にいったり
芝居を見に行く、賭場に顔を出す、色町に遊びに行く、贅沢品を買う』 

ですけど、借金もつくらず渋谷村に店をだし深川に家をたてる訳ですから
遊びの限度をわきまえていたのではないかと思います。 


曾祖父の写真を見たことがあります。拳をにぎり足はハの字、
着物の上から背広をはおりジャズバンドのメンバーがかぶるような帽子を斜に被っています。
まあるい目玉を見開き口はヘの字、なんかイキです。 


もっとも曾祖母いわく 
『この写真だってね、このあと飲みに行って酔っぱらってドブにおちてダメにしちゃったんだよ。
高いお金払って銀座で仕立てたのにね、私がいなければ、店も家も建たなかった。』 

と、豪語していましたが、シワクチャの曾祖母の顔がちょっと嬉しそうに見えました。 

祖母は深川で生まれました。明治30年代後半だと思います。
関東大震災のおりにはもう成人してましたから、、、 

日露戦争真っ最中の頃青春を迎えたと思われるのですが、
祖母から日露戦争の話を聞いた記憶がありません。 


祖母は渋谷の女学校に通っていたそうです。
JISXXXXじゃないかなと思うのですが定かではありません。
曾祖父は祖母をダシにして遊びに行っていたようです。 

『娘が芝居を見たがっている』 
と称して店の金を持ち出し、校門の前で待っているんだそうです。 

祖母いわく、 
『そりゃ、うれしかったわよ。美味しいものも食べれるし、お芝居もみれるし』 
曾祖母いわく、 
『ふん、あんたが芝居を見ている間、あの人はなにをやっていたことやら』 

85歳になる父が昭和42年、月島にマンションを買って以後祖母はちょくちょく上京、
歌舞伎や寄席見物をしておりました。 


で、私も結構、御相伴に預かりました。 



581:
 名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/15(土) 21:52:10 ID:2lb1GRpp0
>>578 
関東大震災の話は聞かれましたか? 



582:
 HaruMix:2007/09/16(日) 23:45:31 ID:k5ZPKqtP0
関東大震災 
我が一族の生活を一変させた災害、これについてはそれこそ耳にたこができるほどきかされました。 
追ってお話しようとは思いますが、もう少し曾祖父、曾祖母、祖父、祖母の話をさせてください。 
こうやって書いているとずいぶん色々なことを思い出してしまいまして、、、 

祖母は渋谷で狐に騙されたことがあったそうです。 
夜、渋谷の店の裏口より外に出ようとした時のことです。 
祖母『川だよ、裏口の戸の外、ごうごうと川が流れていたんだよ、
家が呑み込まれるんじゃないかと思ったね』 


慌てて扉を閉める祖母、一呼吸おいて再び扉をあけると、そこはいつもの見慣れた竹林だったとか 
祖母『そしたらね、竹林の向こうに狐火が、チラチラ見えるじゃないか、
このあたりはよく狐が出るとは聞いていたんだけどね、まさか私が騙されるとは思ってもいなかったね』 

渋谷にはまだ狐が住んでいるんですかね、スペイン坂あたりだと思うのですが。 

大正10年頃、女学校を卒業した祖母は、お店の職人であった祖父と結婚します。
結構腕の良い職人だったとのことですが、不思議なことに祖父も能登の出身なんですよね。
曾祖父か曾祖母が能登から呼び寄せたのかも知れませんが今となっては真意の程はさだかではありません。 




583:
 名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/19(水) 21:31:54 ID:paITAbI50
>>582 
この時代はまだこういう話が当たり前にあったんですね。
渋谷で狐なんて今では考えられない。 
近代と近世が混じりあったなんともいえない雰囲気がいいですね。 



677:
 名無しさん@お腹いっぱい。:2007/12/24(月) 07:25:40 ID:GtjDlds5O
ウチの爺ちゃん大正生まれの87才 
骨太のごつい体つきなので徴兵検査で甲種合格したのが自慢 
大陸で撃たれた鉄砲玉が未だに体内に二発入ってるとか(レントゲンで見える) 

その治療後、鹿児島から南方へ向かう途中、
乗ってた軍艦が沈没して泳いで帰ってきたとかいろいろ逸話がある 

爺ちゃんが帰ってこなかったら戦後生まれの母親はいなかったわけで、
なんだか生きて帰ってきてくれて本当に感謝だわ 


沈没した軍艦から一緒に鹿児島まで泳いだ戦友さんと最近まで
年賀状のやり取りしてたが、向こうさんが亡くなられたらしく凄い気落ちしてた… 




681:
 名無しさん@お腹いっぱい。:2007/12/25(火) 09:14:37 ID:wVgiUp6GO
>>677の補足 
出航して最初の夜に沈没したみたいだよ 
夜中の海が真っ暗で死ぬしかないと覚悟を決めたらしい 
生き残った人が何人か海上で集まれて必死に泳いだらしい 
この辺の下りは直接聞いたわけじゃなくて
母親からの又聞きだからニュアンス違うところあるかもしれないけど 

本人は最近あまり戦争の話をしたがらないので聞くのが躊躇われます 



678:
 名無しさん@お腹いっぱい。:2007/12/24(月) 22:33:14 ID:49Utim3P0
戦友って言葉が凄いリアルだな… 



730:
 名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/19(土) 04:24:16 ID:6m+kPe6GO
道民だが、うちの先祖はクセありまくりだぜ 
(父方の祖父の家系) 
明治中期頃に金沢から北海道へ開拓移住するってんで親族に金借りたはいいが移住後踏み倒しw 
当然関係は断絶したが、祖父と向こうの奇特な方が辛うじて手紙のみで通じていた。 

んで今年ほぼ100年ぶりに父と母が銀婚式を兼ねて代表として金沢に訪問。家交樹立w 
(父方の祖母の家系) 
曾祖父系、開拓初期に来道し、いい意味で暴れまくる。その頃の書物で漢認定www 
曾祖母、大正初め頃に勘当され広島から北海道へ移住。勘当ってwww 
当然行き来なし。手紙のみ。んで10年前に祖母姉妹で70年ぶりに広島訪問。家交樹立w 

正直、オージー共を笑えん。てか開拓前後の北海道はカオス過ぎて書ききれん。日本だと思えんよ。 
まぁ、何だかんだで両家系とも後に地方名士になるから面白い。 
俺?ただの穀潰しwww 


731: 名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/19(土) 04:57:20 ID:6m+kPe6GO
あっ、何だかスレの主旨と違ってたかな。 
ごめんなさい。 
お詫びに伝聞した開拓当時の地元の情景。 
・眼下の地面が動いていたので驚いてよく見ると1000頭超のエゾシカだった。 
・川の流れが止まったのでよく見ると川を埋め尽くした鮭の背広が突き出ていただけだった。 
・木を倒して開墾?楽勝wwwと高を括っていたら、ほとんどが御神木並の巨木だった。 
・雷雲かと思いきやイナゴの大群だった。 
・人跡未踏かと思いきや矢尻や日本刀が見つかった。 



740:
 名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/20(日) 01:43:01 ID:6+ei+5W90
>>731 
そうそう、こういうのが知りたいことなんだよなー 
現代に生きる俺らってちいせえなぁとか思ってしまう。 



823:
 名無しさん@お腹いっぱい。:2008/02/26(火) 15:41:46 ID:0TpKM4jR0
私の祖父がシベリア抑留経験者 

シベリア抑留の悲惨な実態を知り、祖父に尋ねてみたが、 
「ロシア人は優しかった」と、全く予想外の返事がきた。 
祖父曰く、ロシア兵はよく残飯をくれて、それで命が助かったと。 

なんとも評しがたい話だが、祖父はただ生還できた事を感謝していた。 
祖父の話は他にも、農作業の後収穫したジャガイモが一人に2つずつ 
配られ、それで餅を作ったとか、食い物に関してばかりだった。 



824:
 名無しさん@お腹いっぱい。:2008/02/26(火) 19:16:47 ID:/RsUP5+i0
>>823 
帰還できたのは何よりですね、 
私の祖父はシベリアからは還ってくることが出来ませんでした。 
祖母の許には(誰のだか判らないような)赤茶けた髪が一房 
届けられただけだったそうです。 



827:
 名無しさん@お腹いっぱい。:2008/02/28(木) 15:40:16 ID:pfkn2GPx0
>>823 
光人社の戦記見てても、 
ソ連許せねええええええええええええええええええ 
って人でも、ロシア人は優しかったってみんな書いてるんだよね 
大体食い物ネタだが… 
友達のじいちゃんから聞いたけど、食べ物はよくもらってたらしい。 

あと、捕虜に暴行したソ連将校が二等兵に降格された話とか 
日本軍じゃ考えられんって驚いてたな 



93:名無しさん@お腹いっぱい。:2008/06/08(日) 22:45:30 ID:e67BnEAq0
士族だったひいじいちゃんの家に伝わる話。 
正月に近所の若い衆が餅つきするんだけどそれみて「あいつは人が斬れん」 
とか「こいつは斬るな」とか言っていたらしい。腰と手の絞りが持ちつきと 
剣術似てるとからしいけど。 



127:
 名無しさん@お腹いっぱい。:2008/06/12(木) 23:21:50 ID:ISlZJNIA0
明治の頃は女性も時々道で「立ちしょん」したって昔ひいばあちゃんが言ってた。 
どうやってやったんだろう。でも明治になって外人が来て確か政府は切り鼻と 
女性の路上放尿をやめるように通達したとかって話しがあるから本当だったんだろうけど 



129:
 名無しさん@お腹いっぱい。:2008/06/13(金) 02:23:04 ID:oPWdlBW80
>>127 
今でも田舎行くと婆さんが立ちションしてるのが見られるよ。 



169:
 名無しさん@お腹いっぱい。:2008/06/27(金) 21:59:10 ID:WX8tRqUl0
婆ちゃんの実家は信州の東筑摩郡というすごい山中で、サンカの話は聞いてる。 
実家は見た目は普通の農家なんだけど、副業で薬屋をやっていて 
年に2回サンカが、霊芝・熊の胆・薬草とか、漢方薬の原料を売りに来る。 
代金は金じゃなくて、米や豆で払う。 

サンカの人は異様な風体だから、来る日は子供心にドキドキしたそうだ。 
太平洋戦争が始まったらサンカが来なくなった。 
風の便りで、国の命令で新潟県に定住させられたらしい。戦争中だから 
徴兵のために強制的に定住させられたんじゃないか、と婆ちゃんがいってた。 



170:
 名無しさん@お腹いっぱい。:2008/06/27(金) 22:54:18 ID:X0+3xnbeO
ゴメン。スレチは承知での頼みです。サンカとやらを簡単に説明願います。 



184:
 名無しさん@お腹いっぱい。:2008/06/28(土) 18:46:45 ID:I6FKTPJs0
>>170 
定住せず田畑を持たないで山に住む人々だったかな 
江戸時代では被差別階級に属した 

サンカ
サンカは、日本の山地や里周辺部で過去に見られたとされる不特定の人びとを指す言葉である。
その言葉が指し示す範囲は、時代や使用者によって大きく変わり、語義を明確にすることは難しい。 

http://ja.wikipedia.org/wiki/サンカ (民俗学)



324:
 名無しさん@お腹いっぱい。:2008/07/15(火) 23:20:18 ID:NSPyPrju0
20年前に死んだ爺さんが子供のときに犬に追いかけられた。 
その時たまたま通りがかった人が日本刀で犬を斬り殺してくれたそうだ。 
当時は犬など話し飼いだったって言うけど焼けんじゃなさそうだし飼い主は 
心配しているかもなどとほっとしながらおもったそうな 



327:
 名無しさん@お腹いっぱい。:2008/07/16(水) 11:52:37 ID:Jfp66E0T0
>>324 
すげえな…今だったら動物愛護団体から責められるぜ。 
犬切った人は警察? 
昔(廃刀令後)は外で刀もっていていいのは警察・軍人・貴族・消防署の人だっけ? 



330:
 名無しさん@お腹いっぱい。:2008/07/16(水) 20:05:06 ID:sITZIDuMO
>>327 
よく知ってるな。消防署まで知ってる人はあまり居ないと思います。 
曾祖父は消防署所長だったので今でもサーベルあります。 
ただし、戦後GHQにより刃を中程から叩き折られて、斬れないですけど 



361:
 名無しさん@お腹いっぱい。:2008/07/17(木) 22:46:53 ID:1EvlsaNZ0
西南戦争の時、ひーばあちゃんの家に西郷隆盛が泊まりに来て 
お礼にナギナタと鉄砲を一本ずつ置いていったんだって。 
この話聞いたときびっくりして、思わずソースきぼんぬって言いそうになった。 
ちなみにそのナギナタと鉄砲は、第二次世界大戦の時に兵隊に回収されたんだと。 
ハナクソみたいな金属が当時の日本には必要だったんだな。 



438:
 名無しさん@お腹いっぱい。:2008/08/05(火) 13:44:29 ID:HH+rV9fd0
徴兵され、陸軍二等兵としてスマトラ島(インドネシア)へ送られた祖父の話。 

田舎の一本道を輸送車両で走っていると、荷物をたくさん背負ったお爺さんが歩いていた。 
上官から「原住民とは仲良くやれ」と言われていたので、 
そのお爺さんと荷物を軍用トラックで、途中まで送ってやったという。 

数日後、同じ道を走っていると、例のお爺さんが道端の木陰に座り込んでいる。 
運転席に祖父の顔を見つけると、ニコニコ笑いながら近づいてくる。 
(また、乗せてくれか。今日は軍事物資積んでいるし、他の兵士も同乗しているからなぁ・・・) 
と困惑していると、何十本ものバナナの山を差し出した。 

言葉は何を言っているのかわからないけど、「先日の礼だ、受け取ってくれ」ということらしい。 
バナナを荷台の隅へ積むと、お爺さんは、満足げに村の方へ戻って行った。 
いつ来るとも知れぬ祖父が通りかかるのを、毎日道端で待ち続けていたということだ。 

長文、スマソ 



439:
 名無しさん@お腹いっぱい。:2008/08/05(火) 18:21:19 ID:cJZGBp9G0
ええ話や 



284: 日本@名無史さん:2007/01/16(火) 20:57:54
皆、じいちゃんばあちゃん大事にしろよ・・・