http://blog.livedoor.jp/waruneko00326-002/archives/42240652.html 引用

51LtWUB2HwL


1: 世界@名無史さん 投稿日:2011/03/06(日) 01:16:58.99
フランク王国の礎となった有名な3王朝について語るスレです。
3: 世界@名無史さん 投稿日:2011/03/06(日) 11:12:41.80
クローヴィスは政敵の猛攻からかいくぐる為に、シュゲンショウばりの疑心暗鬼に陥ったとか

fdsfgg


クロヴィス1世

クロヴィス1世(466年頃 - 511年)は、メロヴィング朝フランク王国の初代国王(在位481年 - 511年)である。

クロヴィスは晩年フランク人の小王を次々に姦計にかけ、そのほとんど全てを抹殺した。それによりメロヴィング朝は他の家系から脅かされることなく、300年近い命脈を保ったと言われている。
フランス人の伝統によれば、パリに都したクロヴィス1世はフランス王国の基礎を築いた最初のフランス王であった。


4: 世界@名無史さん 投稿日:2011/03/06(日) 12:02:30.82
クローヴィスの父シルデリック(キルデリクス)はサリ族(フランク族の支族)の王だった。 
彼はゲルマニアに亡命していた間に、テューリンギアの王と王妃から厚くもてなされた。 
彼の復位後、前述の王妃バシナは夫のもとから脱出してシルデリックのもとに走り、 
そして生まれたのがクローヴィス。

8: 世界@名無史さん 投稿日:2011/03/07(月) 19:01:36.40
カペー朝はもうフランス王国だろ!

9: 世界@名無史さん 投稿日:2011/03/07(月) 20:44:49.58
>>8 
国民単位までフランス王国が根付くには百年戦争まで待たないと

61: 世界@名無史さん 投稿日:2011/07/08(金) 10:40:43.07
>>9 
この前、フランス人と話したんだが、 
日本では、フランスの歴史として、フランク王国ぐらいから習うけど、 
フランスでは、ウェルキンゲトリクスぐらいから考えるそうだ

230px-Statue-vercingetorix-jaude-clermont


ウェルキンゲトリクス

ウェルキンゲトリクス(紀元前72年 - 紀元前46年)は、ガリア(現在のフランス)に住むケルト人(ガリア人)の一部族であるアルウェルニ族の出身で、古代ローマのガリア侵略に対して抵抗した人物である。フランス最初の英雄と称される。


10: 世界@名無史さん 投稿日:2011/03/07(月) 22:47:33.65
クローヴィスは皇帝になる気はなかったの?

12: 世界@名無史さん 投稿日:2011/03/08(火) 09:54:22.61
>>10 
クロヴィス時代には教皇はローマ皇帝を必要としていなかった

13: 世界@名無史さん 投稿日:2011/03/08(火) 11:52:26.59
トゥール・ポワティエでの勝利は世界史の転換点の一つといわれてるね


300px-Bataille_de_Poitiers


トゥール・ポワティエ間の戦い

トゥール・ポワティエ間の戦いは、732年にフランス西部のトゥールとポワティエの間で、フランク王国とウマイヤ朝の間で起こった戦い。

メロヴィング家が創設したフランク王国では、伝統的な均分相続制が取られていたため、王位継承のたびに国土が分割(3分割・4分割)された。こうして王権は弱体化していき、それに反比例して、王に仕える宮宰(王宮の人事・経済を管理する役職)の力が強まっていった。7世紀後半のフランク王国は、2国(西北のネウストリアと北東のアウストラシア)に分かれており、それぞれの宮宰が争っていた。アウストラシアの宮宰であったカロリング家のピピン2世が勝利して、実権を掌握した。この内紛に乗じて、イベリア半島の西ゴート王国を征服したウマイヤ朝のイスラム政権が、ピレネー山脈を越えてフランク王国内に侵入を始めたのである。

ウマイヤ朝のカリフ・ヒシャームによってイベリア知事に任じられたアブドゥル・ラフマーン・アル・ガーフィキーは、ピレネー山脈の西端を越えて北上し、アキテーヌ公を破ってボルドーを略奪し、破壊した後、軍を東に向けた。この知らせを受けたフランク王国の宮宰カール・マルテル(ピピン2世の子)は、事態の重大さを察知し、急遽軍勢を集めてパリからトゥールに急行した。

トゥールに入ったところ、イスラム軍は到着していなかったため、南のポワティエに向かった。ポワティエの手前20kmの平原で両軍は遭遇し、ここに布陣して互いに相手方の様子を伺っていたが、1週間目の正午から前面衝突が始まった。正午、イスラム軍の騎兵隊が突撃を開始した。重装歩兵を中心とするフランク軍は、密集隊形を組み、前面に盾の壁をつくって防戦した。イスラム騎兵は突撃を繰り返したが、フランク軍の盾の壁はこれを支え続けた。この日、戦いは勝敗がつかず、日没で止んだ。フランク軍は当然、翌朝から再び激しい戦いが始まると予想していたが、朝靄が明けてみると、イスラム軍は多数の遺体を残したまま姿を消していた。アル・ガーフィキーの遺骸もあった。軍師を失ったイスラム軍は、夜中に南に総退却していたのである。


14: 世界@名無史さん 投稿日:2011/03/08(火) 11:55:56.79
でもトゥール・ポワティエでの戦いって 
もともと引き返すイスラム軍を攻撃した戦いのような 
やっぱり西欧勢力がはじめてイスラムに勝利できた戦い、って事で 
その後の精神的支柱になった事が大きいんだろうか? 
それともこの戦いの勝利で後のカロリング朝の礎が築かれた事が大きいんだろうか?

15: 世界@名無史さん 投稿日:2011/03/08(火) 13:43:12.25
ちょっと何言ってんだがわからない

16: 世界@名無史さん 投稿日:2011/03/08(火) 14:35:52.44
>>15 
なんでトゥール・ポワティエが世界史の転換点と呼ばれているのか、って事 
イスラム勢力がフランク王国の侵略・併合を目指して進撃して、 
それを迎撃して打ち負かしたなら、確かにイスラム勢力の攻勢を防ぎ後の西欧世界が構築される礎だったといえるけど、 
実際はカールが指摘してたように、イスラム軍の目的は略奪であって、フランク軍との戦闘が起こったのも 
イスラム軍が略奪を終えて帰途に入った時の事 
これでどういう意味で世界史の転換点といわれているのかなあ、と

17: 世界@名無史さん 投稿日:2011/03/08(火) 15:02:29.06
昔は略奪目的も征服目的も両立してるんだよ 
負けてたら征服された可能性もあったからな 
とはいえ過剰評価されてるのも確かだ 
10万のムスリムが全滅したナバス・デ・トロサの方が評価されていい

18: 世界@名無史さん 投稿日:2011/03/08(火) 15:48:49.89
昔から歴史の転換点は、その時には何がなんだかわからずに 
10年か20年経ってあのときからといった話になるのだから 
サラエボの弾丸の学生にしても、 
日中戦争の時にトイレに入っていた兵隊さんにしても 
今回のチュニジアで焼身自殺した、無職の人にしてもだ

19: 世界@名無史さん 投稿日:2011/03/09(水) 03:14:33.76
ブルンヒルデが倒された後からカロリング朝の成立までほぼ200年(実際はその直後から宮宰として実権者) 
日本の天皇と将軍と比べ興味がある

20: 世界@名無史さん 投稿日:2011/03/09(水) 17:23:17.62
>>19 
日本にはローマ教皇に相当する存在がなかったから。 
むしろイスラーム世界のカリフとスルタンの関係に近いかも。

21: 世界@名無史さん 投稿日:2011/03/09(水) 20:21:02.10
カリフよりは天皇のほうが教皇に近いんじゃないか。 
カリフは自前の領土も軍隊も持ってるし、 
逆に宗教的権威としてはただの信者代表に過ぎんぞ 

イスラームには教会組織が無いし

22: 世界@名無史さん 投稿日:2011/03/09(水) 21:58:29.94
ローマ教皇は一応、選挙で選ばれる。 
天皇とカリフは世襲。

23: 世界@名無史さん 投稿日:2011/03/14(月) 16:56:26.24
フランクがいつの間にかフランスに変わってるでござる。

24: 世界@名無史さん 投稿日:2011/03/18(金) 08:16:07.49
ドイツ語なら今もふらんくらいひ

29: 世界@名無史さん 投稿日:2011/04/03(日) 02:31:38.62
フランスではシャルルマーニュをフランス史の英雄と教えてるらしいが 
ドイツも同じだから本家争い(?)が有るらしいw

31: 世界@名無史さん 投稿日:2011/04/04(月) 00:53:18.02
>>29 
フランス人にとっては、シャルルマーニュって 
「カエサルやナポレオンと並ぶ史上最大級の英雄」って感じだよね

30: 世界@名無史さん 投稿日:2011/04/03(日) 14:23:22.42
王族の言葉がフランク語(ゲルマン語)からフランス語に変わったのはいつ?

34: 世界@名無史さん 投稿日:2011/04/07(木) 01:39:46.42
>>30 
イル・ド・フランスの領主だったカペー家の登極以降じゃないかな?

32: 世界@名無史さん 投稿日:2011/04/04(月) 22:44:59.28
ウード、ロベール一世という二人の西フランク王をだしたロベール家って 
このカペー家の前身だったらしいね

ロベール家

ロベール家は、西フランク王国のカロリング朝後期の9世紀末から三度王位に就き、987年フランスのカペー朝を開いた家系。以後のヴァロワ朝・ブルボン朝にも血脈を繋いでいるので、フランス革命期とナボレオン時代とを除いたルイ・フィリップまで、千年近くフランスの王権を握った。


33: 世界@名無史さん 投稿日:2011/04/05(火) 14:19:45.01
ウード、ロベール一世の父親もロベールっていうでしょ?ロベール家のその前ってわかってるの?

35: 世界@名無史さん 投稿日:2011/04/07(木) 22:52:12.73
ロベール・ル・フォールってライン地方から北フランスに移ってきたという 
から元々はゲルマン系の貴族だったんだろうね 
恐らくカロリング家が分裂したとき西フランク系の王についていきガリア 
土着の貴族と結びつくことによりフランス人になったんじゃないかな?

67: 世界@名無史さん 投稿日:2011/07/26(火) 23:15:34.18
>>35 
>ガリア土着の貴族 

中世に、そんなの居るのかよ? 

ガロ-ローマ時代のセナトール貴族すら中世には居ないだろ? 

一応ローマ貴族は、ランゴバルト族が、元老院を解散させるまではいたらしいが…

37: 世界@名無史さん 投稿日:2011/04/08(金) 23:17:35.47
クローヴィスCLOVISとカロリング家・カペー家の王の名に多いルイLOVIS,Louisは、同じ名前だって聞いたことあるけどほんと? 
フランス王にルイという名が多いのは、フランスがメロヴィンク家以来のフランク王国の正統な後継者だとアピールするため? 
ルイ14世がシャルルマーニュの末裔だというのを誇っていたのは有名だが、名前はクローヴィスを引きずっていたのか? 
クローヴィスは2世までだが、ルイは19世までいる(17・19世は王党派の僭称だけど)

38: 世界@名無史さん 投稿日:2011/04/08(金) 23:34:02.98
クローヴィスとルイは名前としては同じ 

フランス王にルイが多いのは 
偶々ルイの名前で無事成人し王位についた人が多かっただけ 
改名して即位した王がいたならともかく正統な後継者アピールの意図はないでしょう 

あと現在の王位請求者でルイ20世を名乗っている人もいる

39: 世界@名無史さん 投稿日:2011/04/09(土) 18:37:53.43
クローヴィス=クロートヴィヒ=ルートヴィヒ=ルイ 
全部同じ名前

40: 世界@名無史さん 投稿日:2011/04/09(土) 21:47:16.92
ラテン語だとルトウィクスだっけ?

43: 世界@名無史さん 投稿日:2011/04/14(木) 20:52:49.60
神聖ローマ皇帝やフランス王はカール大帝(シャルルマーニュ)の後継者という 
ことになっているからクローヴィスの後継という意識はまずないはずだよ 
メロヴィング側からみればカロリング王権というのは王位簒奪者以外何者でもないからな

50: 世界@名無史さん 投稿日:2011/04/18(月) 20:01:05.07
なんかメロヴィングはミッシングリンクっぽいイメージ

51: 世界@名無史さん 投稿日:2011/04/24(日) 00:19:30.59
メロヴィングはイエスとマグダラのマリアとの間に出来た子の子孫が 
つくった王朝だとも言われている。 「レンヌ・ル・シャトーの謎」参照 

イエス血脈を守る王朝に対して王位簒奪者たち(カロリングの宮宰)は 
ローマカトリックと結託してこの王朝を潰そうとしたのである。

85: 世界@名無史さん 投稿日:2011/10/17(月) 00:36:58.25
>>51 
それ、「歴史シリーズ 古代をめぐる冒険」てアメリカの番組で嘘が実証されてたよ。 
マグダラのマリアから女系で繋がるはずのメロヴィング朝の王女(Aregund)の遺歯を借り、 
ミトコンドリアDNAを解析したが、もろヨーロッパ系(≠マグダラのマリア)の遺伝子だった。 
ふつーに蛮族だわな。よくてローマン・ガリアとの混血ってとこだろ。

53: 世界@名無史さん 投稿日:2011/04/26(火) 00:09:44.05
早死に率と幼君率が半端ないのがメロヴィング朝だな 
平均寿命が20~30代前半なんだぜ? 
長生きの王もいるけど、すごい例外

54: 世界@名無史さん 投稿日:2011/04/26(火) 00:34:41.66
そう思うとブリュンヒルデは長生きだったな。 
60歳くらいまで生きたんだっけ。 
最期は悲惨だが。

55: 世界@名無史さん 投稿日:2011/04/26(火) 09:15:08.94
王が短命なのは、年から年中動き回らなくてはならないからだと、 
ミッタイスが書いていた

56: 世界@名無史さん 投稿日:2011/04/28(木) 01:55:14.90
そこにくると、カペー朝の王統の磐石さはもはや異次元の領域。最後三代除いて王は長寿で治世は整いそれを無事に長子に相続…… 
正直歴代君主の質は名高い清朝を凌ぐのでは?

58: 世界@名無史さん 投稿日:2011/07/07(木) 11:43:08.45
カペー朝ってメロビング朝かカロリング朝と血統つながってないの?

59: 世界@名無史さん 投稿日:2011/07/07(木) 21:39:12.81
ルイ8世の母親がカロリング家の血を引いていたから、ルイ8世の子孫は血統的にはカロリング家と繋がっていることになる。

60: 世界@名無史さん 投稿日:2011/07/08(金) 10:35:50.44
アジアは傍系や側室の子を認めるから、長く続くけど、 
ヨーロッパの家族は庶子には相続権を認めないし、 
傍系が後を継いだら家門名が変わるから、王朝が変ったように見えるけど、血統的には続いた場合が多いよね 

ということで、カロリング家もメロビングの血を傍系・女系・庶系で続いている可能性はないの?

62: 世界@名無史さん 投稿日:2011/07/08(金) 12:08:32.49
>>60 
メロヴィング朝テウデリク3世の曾孫ベルトレドがカロリング朝ピピン3世(小ピピン)の妻にしてシャルルマーニュの母親。 
ということで、血統的はメロヴィングとカロリングも繋がっていることになる。

63: 世界@名無史さん 投稿日:2011/07/10(日) 22:58:32.11
だいたい、ヨーロッパの王様たちは先祖をたどると、ユーグ・カペーに繋がる家が多いと聞いたから、 
もっとたどると、メロヴィングまで遡れるのか・・・クロービスもサリ族の族長の家だしな 

結局、支配者って、最初から変わっていなないんだな・・・としもじもの人間の僻みでした

64: 世界@名無史さん 投稿日:2011/07/11(月) 11:30:33.62
繋がってると言っても女系でって場合が少なくない。つまり有力者の娘を嫁に下からのし上がった 
何処の馬の骨か判らん者もいる筈だ。

65: 世界@名無史さん 投稿日:2011/07/11(月) 11:46:25.18
それは、男系の場合でも同じだろ? 
特に、愛妾なんて、結構身分が低かったりする 

日本や中国も同じ 
大体、日本なんて側室制度があるから、天皇だって、女系をさかのぼったら、 
何世代かでどこの馬の骨かわからなくなる 

だから、東アジアは近親婚の弊害が少なかったと言われているが

68: 世界@名無史さん 投稿日:2011/07/30(土) 12:58:18.60
メロヴィング朝がガリア人の血を引いている可能性もあるか。

73: 世界@名無史さん 投稿日:2011/08/30(火) 18:03:38.54
>>68 
フランク族ってゲルマン人とは限らないぞ。 
ケルトもスラブも居る混成部族で、フランク族は政治的に結成された部族だそうだ。

75: 世界@名無史さん 投稿日:2011/09/07(水) 22:04:06.93
>>73 
クローヴィスもウェルキンゲトリクスの血を引いてたりしてもおかしくないと。

148: 世界@名無史さん 投稿日:2012/01/10(火) 21:11:11.28
>>73 
ライン川東側に定着していた諸民族(ゲルマン・ケルト・スラブ・アラン)は、狩猟、漁猟、農耕、 
交易、ローマ領での略奪で生計を立てていた。その後ローマ領での略奪行為にウェイトが置かれる 
様になり、ローマ軍団の反撃や防衛が活発化してきた。 

その為に彼ら諸民族は、3世紀後半にはローマ人に対抗する政治的軍事的同盟を結成する必要に迫られ、 
ライン川東側の中流から下流に定住していたゲルマン・ケルト・スラブ・アランなどの複数の民族が 
一つに纏まる事になった。これがフランク族の発生とされる。 

政治結社に近い存在であるフランク族は、髪型や武装を統一する事で帰属意識を浸透させていた。 
王族、貴族が長髪である一方、一般戦士の男性は後頭部を剃りあげた。またフランキスカと 
呼ばれる投げ斧やアンゴという投槍を共通武装とした。そして彼らはその出自や民族を問わず、 
これら共通の髪型・武装をし、共に戦う者は皆同じフランク人であると見なした。 

フランク族結成後の西暦354年にライン川上流のアラマンニ族と同時に本格的にローマ領への侵略を開始した。 
侵略直後に下ゲルマニア州の中心都市のケルンを攻略したものの、この侵略行為は、副帝時代のユリアヌスに 
徹底的に反撃され、フランク族はアラマンニ族と共に手痛い打撃を受け、元のライン川の国境線まで押し戻されてしまう。

77: 世界@名無史さん 投稿日:2011/09/16(金) 14:44:23.82
カロリング・ルネッサンスって、いまいち業績がよくわからないのですが、 
現在に残る文芸作品って何かあるのでしょうか。カルロス大帝業績録くらい 
しか思い浮かびません。昨夜たまたま岩波文庫版「ニーゲルンゲンの歌」の 
あとがきを読んでいたら、カールが収集したゲルマン英雄説話を、ルイ一世が 
キリスト教布教への障害となるから、隠滅させた、と出ていました。 
これは本当なのでしょうか?そういうことであれば、ある意味ルネッサンスの 
すぐ後で焚書が起こった、といえなくも無く、カロリング・ルネッサンスの 
説明として、その後の衰退と業績の散逸についても触れないといけないと 
思うのですが。。。

78:  投稿日:2011/09/16(金) 15:49:19.63
>>77 
ルネサンスは別に「俗語文芸の復興」ではない。 
どっちかというとカロリング・ルネサンスはラテン語文字文化 
環境の整備の意味合いの方が強いし、神学的な著作も多 
くてあまり訳されてない。 
http://www.heibonsha.co.jp/catalogue/exec/viewer.cgi?page=browse&code=734016 
リンク切れ

変わり種では、貴族の女性が息子のために書いた 
ドゥオダ/岩村清太『母が子に与うる遺訓の書:ドゥオダの『手引書』(知泉書館,2010年) 
が邦訳で読める。 

大黒俊二『声と文字』(岩波書店,2010年)第2章オヌヌメ。

79: 世界@名無史さん 投稿日:2011/09/16(金) 16:17:41.60
>>78 
なるほど。確かにゲルマン民衆文化はカロリング・ルネッサンスの定義からは 
外れるのかも知れません。しかし、せっかくカールが民話を収集したものを、 
ルイが破棄してしまったのであれば、大変残念なことだと思いますし、 
この件がもっと知られてもよいように思えます。 

お教えいただいた書籍は非常に参考になりそうです。図書館にあるようなので 
参照してみます。

82: 世界@名無史さん 投稿日:2011/10/05(水) 19:38:09.14
メロヴィング朝の遺跡や史料って、どのようなものがあるのでしょうか? 
トゥールのグレゴリウスの歴史十巻以外の史料や、遺跡についてご存知の方、 
お教えください。

96: 世界@名無史さん 投稿日:2011/11/06(日) 10:21:45.96
>>82 
中世初期(5~10世紀)の遺構を訪ねるのを趣味にしていますが、メロヴィング朝の遺構はほとんどないですね。クリプトや石柱など部分的でしたら、パリの教会にも残っていたりしますが、ある程度完全なものはポワティエのサン・ジャン洗礼堂くらいですかね。

86: 世界@名無史さん 投稿日:2011/10/19(水) 12:32:03.99
メロヴィング朝の地域統治は、国王が任命した都市伯が行ったが、実態としては 
地方を支配する有力者を国王が役人に任命することで追認した傾向が強い 
彼ら有力者は司教であることが多く、司教裁判権による紛争の解決や弱者救済などを 
教会組織を通じて行っていた

88: 世界@名無史さん 投稿日:2011/10/28(金) 19:16:45.45
>>86 
実際、セナトール貴族がフランク人を治めていた地域があるぐらい、組織としては 
脆弱だからねメロヴィング朝は。 
行政システム・貨幣制度においても帝政末期ローマをそのまま使用してたし。 

87: 世界@名無史さん 投稿日:2011/10/19(水) 21:18:47.54
貴族の次男三男が聖職者になったというより、聖職者の甥が貴族になったということ?

88: 世界@名無史さん 投稿日:2011/10/28(金) 19:16:45.45
>>87 
メロヴィング朝においては、かつてのセナトール貴族が聖職者となり 
司教座都市を支配する例が多かった。 
ローマ帝国(文明)=ローマカソリック教会として捉えていたから。

90: 世界@名無史さん 投稿日:2011/10/28(金) 20:02:37.54
no title

トルビアックの戦い 
no title

クロヴィスの子どもたち 
http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/1/16/Frankish_Empire_481_to_814-en.svg 
フランク人の支配領域

92: 世界@名無史さん 投稿日:2011/10/29(土) 15:25:29.57
この当時のアキテーヌの領主って本当にフランク王に臣従してんの?

93: 世界@名無史さん 投稿日:2011/10/29(土) 17:54:39.81
>>92 

実質はともかく、形式的には臣従ではなかったか?

104: 世界@名無史さん 投稿日:2011/11/11(金) 20:50:57.54
>>92 
カロリング朝期のアキテーヌはというと、名目的にはフランク人の支配下にあるものの、 
カリベルト2世の死以後、実質的には大公にひきいられた独立の勢力として、 
ことあるごとにフランク王権と対立してきた 
760年ピピンは大公ワイファリウスに対して、彼が不法に略取している教会領を 
返還するように命じたが、大公は逆にオータン、シャロン、トゥールなどの地方にまで 
侵略するというありさまだった 
抵抗が終わったのは、768年のピピンの死の直前に、ワイファリウスが部下により 
暗殺されたときだった 
しかし、この地方の独自意識はなかなか消えず、ピピンを継承したシャルルマーニュは、 
結局生まれたばかりのルイを国王とするアキテーヌ王国を分国として創設し、 
慰撫しなければならなかった

95: 世界@名無史さん 投稿日:2011/11/01(火) 21:53:12.33
スペイン辺境領も、形式的にフランク王国に服属していたんだよな 
しかもその実態は、「辺境伯」によって管理された実体のある行政体ではなく、 
複数の伯領の寄せ集めにすぎなかった

98: 世界@名無史さん 投稿日:2011/11/07(月) 20:16:49.29
同じゲルマン系の王国でも、西ゴートは中央集権的だったのに、フランクは分権的 
この違いはどこからきているのだろうか

106: 世界@名無史さん 投稿日:2011/11/19(土) 12:19:12.09
>>98 
フランク王国は、ゲルマン的慣習を政治に持ち込んだため分権化が進んだ。 

当時ガリアには軽視できないほどの旧ローマ・セナトール貴族層が多く、 
その力を借りねば統治が難しい状況にあった。特に南部(セプティマニア、 
プロヴァンキア)においては王の支配をほとんど受けてなかった。 

さらに王の死後、息子たちが領地を分国統治するというゲルマン慣習が 
地方分権化に拍車をかけている。

99: 世界@名無史さん 投稿日:2011/11/08(火) 15:48:25.51
西ゴートのほうがローマの影響が深くて文明化されていたためだろう

100: 世界@名無史さん 投稿日:2011/11/08(火) 19:42:14.82
西ゴートが文字通り移民だったことに対して 
フランクは膨張・発展だったからでは? 

西ゴート治下のガリアでは、西ゴート的要素が見られず 
支配階級と被支配階級の差が歴然とあったことが示唆されている

103: 世界@名無史さん 投稿日:2011/11/11(金) 12:59:24.94
西ゴート王族出身で、アウストラシア王妃となったブルンヒルドはローマ的な 
中央集権体制を築こうとしたらしい 
自らの利益を害されると感じたアウストラシア貴族層は、彼女をブルグンディアに追放した 
ブルンヒルドはここでも同じ目的を追求する 
ブルグンディアはローマ人宮宰プロタディウスが支配しており、ローマ的な 
統治方式の復活はより容易のように思われた 
しかしここでもまた、貴族層の反発は激しく宮宰は暗殺される

105: 世界@名無史さん 投稿日:2011/11/19(土) 12:08:32.28
>>103 
最近の研究によると、メロヴィング朝ではパトローヌス(庇護層)とクリエンティス(被庇護層) 
といったローマの慣習が生きていたようだ。 

一般に王や大公、地方権力を持つセナトール貴族がパトローヌスになることが多い。 
彼らが死ぬと、クリエンティスたる宮宰などトリブーヌス(宮廷役人)は大抵暗殺された。 

生き残ったものは、あらたなるパトローヌスを得てトリブーヌスとして復帰した模様だ。

111: 世界@名無史さん 投稿日:2011/11/20(日) 12:20:17.83
>>105 
それって、patronus-clientisが生きているって言うんだろうか? 
本来のローマのこの関係は、「『顧問弁護士』兼『支持政治家』」みたいなもんだぞ。 
政治活動をする時は、積極的な後援活動を行い、何かあったときは後ろ盾になってもらう。 
法廷闘争をすることになったら、訴訟代理人として活躍をお願いする(クライアントの語源)。 
(ローマでは弁護士を立てないと、時効に関する訴訟以外では弁護士強制原則違反) 

基本的には、緩やかに鞍替え可能なのがポイントで、 
パトロン死んだら隷属民アボンという、むき出しの氏族制度とは全く違う。

112: 世界@名無史さん 投稿日:2011/11/20(日) 18:51:00.06
>>111 
基本的なスタンスで考えたら、合ってるのでは? 
無理やりローマ時代に当てはめるのが、そもそもおかしいと思う。

110: 世界@名無史さん 投稿日:2011/11/20(日) 10:29:29.93
no title

メロヴィング家系図

113: 世界@名無史さん 投稿日:2011/11/22(火) 13:10:19.36
>>110 
最後の王ってキルデリック4世だろ。

114: 世界@名無史さん 投稿日:2011/11/22(火) 20:08:37.32
>>113 
Chilperic3世(ヒルデリヒ3世とも)で正しい。 
彼はアルヌルフ(カロリンガー家)のピピンおよびカールマン兄弟によって 
Chilperic3世として擁立される。 

751年のソワソン会議にて廃位が決定。ピピンが国王に選定される。 

その後、Chilperic3世は元々住んでいた修道院へ戻っていった。

115: 世界@名無史さん 投稿日:2011/11/22(火) 20:28:47.03
カトリック教会と結びついたカロリング朝はイエス直系の子孫といわれる 
メロヴィング朝を根こそぎこの世から葬る必要があった

116: 世界@名無史さん 投稿日:2011/11/22(火) 22:59:39.99
>>115 
一方で、カトリック教会としては東ローマ帝国および 
イスラム勢力の圧迫から強大な保護者を必要としていた。 

よって、この結びつきは必要というか必然だったと思われますね。 

時の法王ザカリアス曰く、 
「王の力なきものが王たるよりは、力あるものが王たるべきである」

117: 世界@名無史さん 投稿日:2011/11/23(水) 08:01:52.25
メロヴィング朝は>>85の通り、セム系血統はいっさい入ってないけどね。 
その手の伝説がでてきたのはもっと後の時代でしょう。

120: 世界@名無史さん 投稿日:2011/11/28(月) 19:50:10.44
単純な疑問ですが、 
メロヴィング朝の系図を見ていたら、 
ネウストリア王とアウストラシア王になっていました。 
もしかしてフランク王という称号はなかったのでしょうか。

122: 世界@名無史さん 投稿日:2011/11/29(火) 20:09:09.14
Rex Francorumの入った文章とかあるから、フランク王の称号はあるでしょ。

123: 世界@名無史さん 投稿日:2011/11/29(火) 23:13:44.08
分割相続して割れただけだろ

124: 世界@名無史さん 投稿日:2011/11/30(水) 21:46:36.57
後期の王がネウストリア王兼アウストラシア王になっていたのです。

125: 世界@名無史さん 投稿日:2011/11/30(水) 22:03:52.25
ゲルマンの慣習にのっとって、分国はするのはまずかったよな。 
王国が衰退するとか、分らなかったのかな。

128: 世界@名無史さん 投稿日:2011/11/30(水) 23:38:01.27
>>125 
今で言う公という概念がなかったんでしょ 

彼らの感覚では大土地所有者が資産分割してるだけだったってことなんじゃないかな

129: 世界@名無史さん 投稿日:2011/12/01(木) 19:11:14.81
>>128 
なるほどね。たしかに。 

行政システム、貨幣制度とか満足に持ってなかったから最初に 
シアグリウスの本拠地攻めたぐらいだし。